眼鏡橋

長崎の代表的な観光スポットの一つ、眼鏡橋にはきょうもたくさんの人々がおとづれ、橋を渡っている。渡っている中には、地元の人々もいる。眼鏡橋は観光スポットというだけでなく、人々の生活の橋でもある。

長崎の歴史を伝える眼鏡橋

眼鏡橋という名前の由来

長崎・中島川にかかる二連アーチ式の石橋である眼鏡橋は、長さ22m・幅3.65m、川面からの高さが5.46mという小さな橋だ。二連のアーチの形が川面に影が映ると、アーチと重なって眼鏡のように見えることから、そう呼ばれるようになった。

眼鏡橋がかかっている中島川は、全長5.8kmに満たない小さな川。なんと、その川に17世紀末までに直交する道路筋のほとんどに石橋が架けられ、かつては19もあったそうだ。過剰気味のこれらの橋は、僧侶、通詞(事)、商人など、長崎在住の個人の財力で造られた。鎖国時代唯一の外国貿易港であった当時の長崎の豊かさを象徴する一例といえよう。

上の写真「眼鏡橋」左のたもとに中島川石橋群タイル絵がある。

眼鏡橋袂にある「中島川石橋群」のタイル絵

中島川に関しては以下の記事をどうぞ。

眼鏡橋の敷設

眼鏡橋のたもとにある黙子如定の像

眼鏡橋は、1634年、興福寺二代住持の黙子如定(もくす にょじょう:中国江西省出身)禅師によって架設されたといわれる。眼鏡橋のたもとに黙子如定の像が設置されている。
1634年は、江戸幕府が奉書船以外の渡航と海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じる第1次鎖国令を再通達し(第2次鎖国令)、長崎にボルトガル人のための居留地『出島』の建設を開始した年だ。
翌1635年「第3次鎖国令によって、中国・オランダなど外国船の入港が長崎のみに限定され、また東南アジア方面への日本人の渡航と日本人の帰国を禁られた。1636年に出島が完成し、
『第4次鎖国令』によって、貿易に無関係のポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放するとともに、貿易を行うポルトガル人を出島に移した。

ただし、唐人に関しては、唐人屋敷が完成する1689年まで市中雑居が許可されており、唐人である黙子如定も市中(寺町)にある興福寺に居住していた。

眼鏡橋の歴史

黙子如定が架設した最初の眼鏡橋は、1647年の大洪水で崩流してしまい、翌1648年に修復された。以降も、幾度となく大洪水に見舞われたが、どうにか崩壊は免れ、1960年に国の重要文化財に指定されている。

1982年、長崎は大水害に見舞われ、眼鏡橋も一部が壊れてしまった。

現在の眼鏡橋は1983年10月修復されたものである。

眼鏡橋を撮る

めがねの形にこだわるなら

「めがね」の形をうまく撮るおすすめポイントは、おすすめの撮影ポイントは下流側のお隣の橋”袋橋”から。

袋橋から撮ると眼鏡橋を背景も含めて綺麗に撮れることうけあいだ。上の写真も袋橋から撮ったものだ。眼鏡のように見える橋”眼鏡橋”を撮影するには、下流から撮るのがよい。上流からだと水面の影が写せない。

もう一つは、写真にある、眼鏡橋と袋橋との間にある飛び石から。眼鏡橋や袋橋のそばに、下に降りれる階段があるので、そこから降りて飛び石へ。飛び石はより眼鏡橋に近く、全体を写せる距離なので、いい記念写真になる。

風情を撮るなら

竹下夢二の美人画

右の絵は、竹久夢二が描いた眼鏡橋。もちろん美人画だ。

人物をアップしたいときは近場で移さざるを得ない。

また、眼鏡橋をアップしたいときはやはり、川岸へ降りよう。降りて、下から写す眼鏡橋も迫力があるよ。

中島川には鯉が放流されているので、鯉が泳ぐ姿を見ることができる。鯉に餌をやっているところを写してもいい。

大水害までは飛び石もその下流にある堰もなかったので、満潮時には眼鏡橋下でも”ボラ”が泳ぐのを見ることができた。また、飛び石より下流の川底や護岸の石にはびっしりと白い貝殻がついているのを見ることができる。これは”かき”の貝殻。中島川の流れは、眼鏡橋あたりで海水と真水が入れ替わる。川魚と海水魚の共演を写すチャンスがあるかも。

眼鏡橋

Posted by NM-Heart