鎖国と長崎

鎖国とは

「鎖国」という言葉は、1690年〜1692年に来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンベルが著した『廻国奇観』「日本誌」巻末付録の最終章の異様に長いタイトルを「鎖国論」としたことから造語されたものだ。したがって、一般に言われる江戸幕府の「鎖国令」は、実際に発せられていたわけではない。
鎖国体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成したとされる。

鎖国への背景

南蛮貿易の始まり

ポルトガルは、アジアへの進出・植民地化を進めていた。1511年マラッカを占領、1557年にはマカオに居留権を得ている。そして、マカオを拠点として、にほん日本と日明中国との貿易は、「語勘合貿易」によって行われていたが、1549年で途絶えてい両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に絹)を安定的に入手できるようになった。そのマカオを拠点として、日本・中国との取引が行われるようになった。

貿易とキリスト教

ポルトガルとの貿易が始まると、日本には「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、スペインやポルトガルの宣教師は熱心な布教を行い、戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れるなど、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数が九州を中心に広く拡大していった。当時の権力者であった織田信長はこれを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)。なお、当時、海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。
織田信長・豊臣秀吉の後、政権を握った徳川家康は貿易による利益を重視し、布教に熱心なカトリック系を排斥する一方で、貿易に熱心なプロテスタント系のオランダ人やイギリス人には朱印状を出して通商を許可していた。オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立し、貿易が活発化した。当時、スペインからの独立戦争(八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府には好都合であった。しかし、3年後には明朝以外の外国船の入港を長崎と平戸に限定し、これが幕府の鎖国体制の端緒となる。なおイギリスはオランダのと対峙衝突が相次ぎ、東南アジアから撤退してインドのムガル帝国経営へ向かい、1623年のアンボイナ事件をきっかけに商館も閉鎖、日本を撤退している。一方、オランダは台湾を含めてアジア地域との香辛料貿易を独占支配した。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。
とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。しかし、1609年のマカオの朱印船騒擾事件に続くノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件、岡本大八事件をきっかけに、1612年、幕府は諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。

江戸幕府の鎖国体制

鎖国の完成まで

1604年 生糸の価格統制を定めた糸割符制度を導入する。
1612年 諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達する。
1613年 キリスト教信仰の禁止を明文化する。
1616年 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
1620年 英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教につながる(平山常陳事件)。
1623年 イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖する。
1624年 スペインとの国交を断絶、来航を禁止する。
1628年 タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年 朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必須の奉書船制度を開始する。
1633年 『第1次鎖国令』。奉書船以外の渡航と、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じる。
1634年 『第2次鎖国令』。第1次鎖国令の再通達し、長崎に出島の建設を開始する。
1634年 長崎にボルトガル人のための居留地「出島」を着工する。
1634年 日本最初のアーチ式石橋「眼鏡橋」を架橋する。
1635年 『「第3次鎖国令』。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定する。
東南アジア方面への日本人の渡航と日本人の帰国を禁じる。
1636年 出島が完成する。
1636年 『第4次鎖国令』。貿易に無関係のポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放する。
残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年 日本史上最大規模の一揆と言われる島原の乱が起こる。
|  (キリスト教が一揆勃発後の拠り所とされた。)
1638年 *このとき、オランダが幕府に武器弾薬を援助している。
1639年 『第5次鎖国令』。ポルトガル船の入港を禁止する。
1640年 マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航するも、徳川幕府は使者61名を処刑する。
1641年 オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年 オランダ船は日本中どこに入港してもよいとの徳川家康の朱印状を否定する。
1644年 中国で明が滅亡し、満州の清が李自成が建国した順を撃破して中国本土に進出する。
(明の再興を目指す勢力が日本に支援を求めるが、徳川幕府は拒絶を続ける。)
1647年 ポルトガル船が2隻、国交回復依頼に来航するが、徳川幕府は再びこれを拒否する。
(以後、ポルトガル船の来航が絶える。)
1673年 イギリス船が長崎に来航し、交易の再開を求めるも幕府は拒否する。
(以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。)
1689年 唐人屋敷が完成し、唐人の市中雑居が禁止される。

眼鏡橋

Posted by NM-Heart